ぼくのプロフィールに興味を持っていただきありがとうございます!!
今までの人生をありのままにこの記事にまとめたいと思います。
目次
簡単なプロフィール
ラオスのジーコ(@laolaos_koji)
・富山県生まれ
・信州大学教育学部(保健体育専攻)に入学し大学二年生で初海外で『ラオス』に。大学4年生のときに初アフリカ『ケニア』に。
・大学卒業後、同大学院に進学し国際学校保健を専門に学び、大学院1年の時にはラオスで2カ月滞在しラオスの環境教育と健康教育に関する調査を実施。
・大学院修了後、新卒でJICAの青年海外協力隊に公衆衛生隊員として参加。
・2016年6月からラオスでエコヘルス教育(保健教育・環境教育)活動。
・2017年7月、ラオスの文化をより深く知るためにラオスで出家(詳しくはkindle書籍『ラオスで出家した青年海外協力隊: ラオスの仏教に学ぶあたたかい循環の作り方』)。
・2018年9月からカンボジアでブログ執筆活動とスタディツアー運営。
・2019年4月から福岡に移住し、フリースクール「みんなの学び館」の事務局長として活動。
【現在の活動】
コミュクル共同代表(あたたかいコミュニティ社会に増やすコミュニティ)
プロコーチとして活動(コーチングの詳細はコチラ)
コミュニティコンサルタント
⇩現在の活動の内容の詳細はコチラ
〇『不登校』という言葉(概念)を無くす
〇海外(特にラオス)の情報を届け、世界を広げる
〇多様な価値観を提供し、これからの生き方を考えてもらう
を軸に活動をしています。
それぞれのSNS運営の役割とヴィジョン
ぼくは現在主に3つのTwitterアカウントを役割別に運営しています。
・1つ目は『先生、学校に行かなきゃいけないの?』というアカウントです。
このアカウントでは『「不登校」という言葉を無くす』を目指して発信しています。
『「不登校」という言葉を無くす』とは、学校以外にも子どもたちの居場所があり、学校に行かずとも学び続けることができる選択肢があり、不登校の子を「不登校」と呼ぶ必要がない未来。つまり、『学校に行かない』がただの選択肢になることを目標としています。
・2つ目は『おいでよラオス』というアカウントです。
このアカウントでは、ラオスくんがただただラオスの魅力をつぶやいています。
ラオスは日本ではまだまだ知名度が低く、また知っていても発展途上国というイメージが強いです。そこでそのイメージを払拭すべくラオスの魅力をバンバンつぶやいています。
本当にラオスは良いところなので、是非『おいでよラオス』をフォローしてみてください。
・3つ目は『本人アカウント』です。
言わずもがなですが、ぼくが気ままに思ったことや今やっていることをつぶやいているアカウントです。
ぼくはぼくの生き方そのものをコンテンツとして発信したいと思っています。ぼくの生き方・考え方に興味関心を持ってもらい「こんな生き方があるんだぁ」「こんな見方があるんだぁ」と価値観を広げてもらうことが最終目的です。
この3つのアカウントは一見バラバラのように見えますが、実は繋がっているのです。
例えば、ある人は『先生、学校は行かなきゃいけないの??』から、ぼくの本人アカウントに飛び、そして、ラオスという国を知り「そんな世界もあるんだぁ!!」「ラオスに行ってみたい!!」と思う人がいるでしょう。
また、ラオスや協力隊関連でぼくのアカウントを知った人が日本の不登校の問題を知り、自分も何か貢献したいと思う人も出てくるでしょう。
そんな感じで、様々な繋がりが生まれることを期待しています。
そして、この繋がりを作るということが大きな価値を生み出すと信じています。
その価値の集約の場が当ブログ『コノミチ』です。
当ブログについてはコチラを読んでください。
これまでの歩み《この道》
幼少期・小学生
ぼくは1990年、夏の休みも終わる頃、富山県にて3人姉弟の末っ子として産まれました。
両親が共働きだったため、基本的には祖父母の経営していた定食屋さんで日中を過ごしていました。そのため祖父と一緒に行く出前やお店にくる常連さんと話すことを楽しみに過ごしているような子どもでした。
保育園では当時流行っていたカクレンジャーごっこをジャングルジムで毎日のようやっていました。ぼくはアカレンジャー、アオレンジャーよりも、透明レンジャーや銀レンジャーなど変わった色をいつも選んでいました…。
小学校に入ると落ち着きのなさが更に加速し、授業参観の時には母親の前で当ててもらいたいがために手を挙げるものの先生の質問の内容を聞いていなかったので答えることができず母は恥ずかしい想いをしたらしい…。
高学年になると小学校の敷地内に植えられていた桑の実を取ることにハマり、休み時間の終わりも忘れて桑の実取りに集中し、先生に怒られる日々でした。
部活が全ての中学時代
中学に入学すると何を思ったか、『顧問の先生が怖いから絶対に入ってはいけない』と言われていたバレーボール部に入部してしまいました。
案の定、土日は毎週遠征。罵声・体罰は当たり前。
先生の言うことは絶対服従で、完全に今でいうところの『ブラック部活』でした。
しかし、その頃はそれが当たり前だと思っていたし、それどころか先生の厳しい指導のお陰で自分たちは強くなれたと感謝もしていました。
たしかに先生の厳しい指導によってぼくたちは県で優勝するくらいのチームにはなることはできました。
しかし、今思い返せば、それは『ただ勝つだけで強いチームだとは言えなかった』ように思います。
なぜなら、試合では先生に怒られないためにプレーをしていて、自分たちで考えて工夫するということがなかったからです。そして、相手を負かすことを楽しんでいたからです。
ぼくらはただ勝ってしまうばっかりに『苦労して練習しているから自分たちは正しいんだ』という曲がった自己肯定感を持っていたように思います。
この中学の頃に染みついた考え方にこのあとも悩まされることになったのでした…。
記憶喪失高校時代
はっきり言って、高校時代の記憶はほとんどありません。
そして大人になった今も、高校のときの同級生と会うことは全くありません。
どうして高校の記憶がほとんどないのかというとやはり高校生活が全く面白くなかったんですよね。
当時は流行っていたガラケーアプリの「糸通し」や「チャリ走」のスコアを競い、宿題は授業の直前に友達のノートを写すだけの日々。
先生たちがぼくらに話す内容も中間・期末テストや大学受験模試の点数の話ばかり。
何となくみんなが行っているから高校に進学したけれど、勉強の内容も先生の話もつまらないし、何のために勉強しているのか?何のために学校に行っているのかわからない状況で、
何度も何度も何度も学校を休みたいと思ったがこれまで培ってきた「学校は休んじゃいけないもの」「苦労することが正しい」という考えが自分の気持ちに蓋をして、ただただ通っていた。
そして、高校生活最終日なんと自分が皆勤賞であったことを知りました。
校長室に行き賞状と副賞の図書カード1000円分を貰いました。
そこでぼくは抱いた感情は嬉しいではなく、虚しいでした。
ぼくの3年間の『学校に行きたくない』という我慢はたった1000円分にしかならないのかと思うとアホくさくなったからです。
そして、何のために勉強をしているかわからないぼくは大学受験には失敗し、浪人することになりました…。
この時に初めて「我慢して学校に行く価値ってなんだ?」と疑問に思ったのでした。
世界への扉が開かれた大学時代
浪人したぼくにはやはり大学進学するという選択肢しか持っていなかったので、とにかく県外の大学に行ければ良いと思い、長野県の信州大学教育学部(保健体育専攻)に進学しました。
保健体育専攻に進学したのは2次試験が実技でセンター試験以降勉強しなくてよかったのと、大学の授業も運動で単位が取れるから楽だと思ったという安易な考えからでした。
そして、将来はなんとなく体育の教員にでもなればいいかなと思っていました。
そんな安易な理由で進学したのですが、恩師T先生との出会いがぼくの人生を大きく変えたのでした。
T先生は、主に学校保健や公衆衛生の分野を担当する当時大学教員2年目というスーパー若手教員でした。
しかし、彼女はアフリカ・ニジェールの元青年海外協力隊で、大学院生(博士課程)の時はラオスで3年間住み込んで研究をし、現在(当時)もラオスの学校保健の研究にをしているという、ぼくが今まで出会ってきた人の中で一番ぶっ飛んでいて、面白くて、未知の経歴の持ち主でした。
それに惹かれたぼくは大学二年生のときの研究室決めで彼女の研究室に所属することを決めたのでした。
そして大学2年生の夏休みにT先生が行うスタディーツアーの一環で人生初の海外で「ラオス」に行くことになりました。
初めての海外ラオスはぼくの目には全てが新しく映り、驚きと感動の連続でした。
見たこともない景色、食べ物、聞いたこともない言語、通じない日本の常識、そして、そんな中でバリバリ働くT先生。
『世の中にはこんな世界があるのか!?こんな生き方があるのか!?』
『日本の当たり前は当たり前じゃなかったんだ!!』
『世界は広い!だけど近い!』
そんな風に初めての海外で思ったのです。
そこからぼくは国際協力の世界にのめり込んでいったのでした。
そして大学4年生の春休み、今度もまたT先生とアフリカ『ケニア』に行くことになりました。
初めてのアフリカの大地、ケニアはラオス以上の衝撃でした。
テレビの中のだけの世界だったアフリカに自分がいるという不思議な感覚。
ぼくたちは小中学生の身体測定を行うために、アフリカ最大の湖、ビクトリア湖の畔のにあるビタという地域に行ったのですが、その地域ではビクトリア湖で取れる人間ほどの大きさ(大きいものは2mにもなる)のあるナイルパーチという名のスズキの一種の魚が輸出の商品として有名でした。
実はナイルパーチは日本も輸入しており、学校給食やコンビニ弁当の白身魚で私たちはしらないうちにこのナイルパーチを食しているのです。
「世界は繋がっている」なんて言葉はそれまでもよく耳にしてきたのですが、そんなのは戯言だと思っていたけれど、ナイルパーチのことを知り、その時初めて世界の繋がりを実感したのです。
ぼくらは小中学生の身体測定を、つまり、ケニアの学校保健の指導を行いにビタまで行ったのですが、もし、彼らが健康を損ないビクトリア湖でナイルパーチの漁が出来なくなると、ぼくたちの住んでいる日本の食卓にも影響を及ぼすことになるのです。
約1万1千km離れたケニアですら、ぼくたちは繋がりを持っている。
そう考えると、この世界で繋がっていない人なんて1人もいない。
つまり、今、世界中で起きている様々な問題で自分に全く関係のないことなんて1つもない。
ケニアに行き、自分の目で観て、体験したことで、世界の繋がりを実感したのでした。
このようにT先生に出会ったことで、ぼくの世界観・価値観は大きく変化したのです。
ちなみに、もしかしたら「それだけ海外に行けたのはお金があったからでしょう?」と思う人がいるかもしれないけれど、我が家はそこまで裕福な家でもなく、ぼくは奨学金を借りて、バイトもしながら大学生活を過ごしていました。
そしてケニア渡航の当時はお金が無くT先生に13万円を前借りしてケニアに行きました。
こんな言葉を聞いたことがあります。
「迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめとけ」
今思い返してもこの決断は良い決断だった思います。
静と動の大学院時代
T先生のもとでもっと国際協力や学校保健、子どもたちの健康について学びたいと想い同校の信州大学大学院教育学研究科に進学しました。
大学院1年生の頃は研究と学会発表準備の日々でした。
夏休みには2カ月間ラオスに滞在し修論のデータ収集を行ったり、
学会雑誌に研究を投稿したり、
ある学会では2日間で3題の研究発表を行いストレス過多で膀胱炎になりかけたり。
T先生の指導のもと、The大学院生として動きまくっていました。
しかし、その日は突然やってきました…。
T先生が1年間大学を休職して、WHO(世界保健機関)で働く事になり、スイスに行ってしまったのでした…。
つまり、大学院2年目は放置プレイです。
一応、修論を終わらせるという課題はありましたが、それも指導教官のT先生がいなくてはやる気もでません。
しかも、教育学部で大学院まで行く人は少なく、院生室にはぼくただ1人だけという環境でした。
完全に時間を持て余してしまいました。
しかし、それは必ずしも悪いことばかりではありませんでした。
それまでは先生の言うことだけをこなすだけで他のことに手を出す余裕もない毎日だったのですが、自由な時間が有り余っていたので、自分の好きなこと・知りたいことを調べまくることができ、自分のやりたいと思ったことをすぐに始めることができたのです。
そうして始めたのが『先生、学校は行かなきゃいけないの??』でした。
前々から不登校の問題には関心を持っていたのですが、このときに時間ができ、これからのAIの進化や日本の働き方の変化などを調べていると、これからの時代、今学校に行かないを選択している子ってめちゃくちゃ可能性があるじゃん!と思ったのがきっかけでした。
もし、T先生がいなくなっていなければ、たぶんぼくは『先生、学校は行かなきゃいけないの??』のアカウントは作っていなかっただろうと思います。
たぶん必ずしも思い通りに進むことが良いことだとは限らなくて、思い通りに進まないときにこそ新しい可能性が生まれるのだと思います。
そもそも人生が思い通りに進むなんてことはないんだから、ぼくたちの周りには可能性で溢れているんだと思います。
大切なのは思い通りに進まなかったときに、新しい可能性に気づくことができるかどうか。
悟りの青年海外協力隊時代
国際協力をやりたいというよりも、ぼくは自分の世界を広げてくれたラオスとT先生に恩返しをしたいという気持ちで青年海外協力隊になりました。
ラオスに公衆衛生隊員(エコヘルス教育)として派遣されたぼくは、2年間でラオスのことが大好きになりました。
と言うのも、ラオス人の口癖に『ボーペンニャン(ບໍ່ເປັນຫຍັງ)』という言葉があります。
この言葉は『どうってことないさ』『大丈夫』『どういたしまして』という意味です。
心配して「大丈夫?」と聞いても『ボーペンニャン』
自分が失敗しても相手が失敗しても『ボーペンニャン』
「ありがとう」と言えばもちろん『ボーペンニャン』
と言います。
ぼくは、この『ボーペンニャン』という言葉が大好きになったのです。
もちろん仕事をする上ではこの『ボーペンニャン』が問題になることもあるんですが、、、それでもやはり『ボーペンニャン』なのです。
そんなラオスの『ボーペンニャン』精神はどこから来るものなのかを知りたくてラオスの文化に根付いている仏教について知るべくぼくはラオスで出家すること(お坊さんになること)にしました。(ちなみにラオスの男性は一生のうちに一度はお坊さんなった方が良いとされており、出家することが親孝行にもなると言われています。
詳しくはぼくが出版した『ラオスで出家した青年海外協力隊: ラオスの仏教に学ぶあたたかい循環の作り方』を読んでみてください。
出家してラオスはお寺(仏教)というものを中心にお金・もの・想いが循環しているということが分かりました。
ラオスではお金のない家の子はお寺に預けられます。お寺に入ると(出家すると)衣食住が保障され、また、教育を無料で受けることができます。つまり、ラオスではお寺が社会保障の役割も担っているのです。
そして、ラオスではお寺(お坊さん)に喜捨をすることで徳を積むことになると信じられており、喜捨をすることが習慣化されています。
このようなお寺を中心としてお金・もの・想いの循環が彼らの精神的支えとなり、ラオス人は『ボーペンニャン(どうってことないさ・大丈夫だ)』と言えるだと思います。
この出家の経験以外でもラオスでの2年間の生活の中でたくさんの学びを得ることができました。
ラオスには恩返しをしたいと思い協力隊として活動しにきたはずなのに恩を返すどころか更に多くの恩をいただいてしまいました。
なので協力隊を終え、これまでの貴重な経験を今後、日本に、ラオスに、世界に、どのように還元していくかがぼくの課題となりました。
そして出した答えが、
〇『不登校』という言葉を無くす
〇海外(特にラオス)の情報を届け、世界を広げる
〇多様な価値観を提供し、これからの生き方を考えてもらう
ということです。
そしてまた『お金・もの・想い』を循環させるラオスのお寺のような存在をこの場に作り上げたいと考えています。
学校に行ってないけど『ボーペンニャン(どうってことないさ)』
将来が見えないけど『ボーペンニャン』と言えるような社会になればと思います。
このプロフィールではまだまだ具体的なことは見えないかもしれませんが、この先どんどん具体化させていきますので、
どうぞ、今後ともぼくの動向を楽しみにしてください!
そして、ぼくのことを応援してくださる方は是非、Twitterアカウント(@laolaos_koji)やFacebookページ『コノミチ』のフォローをよろしくお願いいたします。
そして、親子オンラインスクール『cocowith』もよろしくお願いします。
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