サバイディーສະບາຍດີ
どうも、ラオスのジーコです。
還俗してから色々とバタバタとしてて、あっという間に2週間ほどが経ってしまいました。
まだ2週間しか経っていないのにもう何カ月も前のことだったように感じます。
ということで、はやく書かないと色々と忘れていってしまう~と危機感を持っています…。
ではでは、今回は出家中毎日行っていた「托鉢修行」の全14回を振り返ってみたいと思います。
ぼくは毎日Twitterでその日に頂いた托鉢の中身と感想を書いていたので、これまでのハイライトご覧ください↓(前半は関係のないことも書いてますがご了承を…)
托鉢で入れてもらったもの。
(朝ごはん後の写真なので、最初よりもち米(カオニャオ)は少ない状態です。) pic.twitter.com/lxwMPZ9rV3— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月9日
今日の托鉢の中身。 pic.twitter.com/39sGAXY4go
— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月10日
7月11日、今日の托鉢の中身
今日で托鉢3回目。
最初の日よりも足の痛みが少なくなった。
痛みが無くなると下(地面)を向かずに前を向いてなるけるようになる。
そうすると、視界が広がり色々なものが見えるようになった。 pic.twitter.com/i1vRQBbuvJ— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月11日
托鉢で足に変な力を入れてしまっているせいか筋肉痛になっている。
— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月11日
7月12日、今日の托鉢の中身。
托鉢後に最年少の11歳の小坊主が「今日は7000キープも貰えたよ!」と嬉しそうに一言。
その気持ちは分かるが、、、
うーむ。 pic.twitter.com/SGo9NVuvvN— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月12日
7月13日、今日の托鉢の中身。
これまではなるべく情報を取り入れようと周りを見ながら歩いていたが、今日は逆に情報を遮断して歩くことだけに集中してみた。
これはなかなか良いぞ。 pic.twitter.com/evt0uP9gGk— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月13日
7月14日、今日の托鉢の中身。
痛みを感じてもそれが苦しみにはなるとは限らない。
痛みを避けようとして、痛みがあると苦しみになる。
道の小石を全て避けて歩けないように、人生もまた痛みを全て避けて歩けない。痛みを我慢するのではなく、痛みを苦しみと見なさない。 pic.twitter.com/W8goCGCPST
— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月14日
7月15日、今日の托鉢の中身。
たかが言葉、されど言葉。
ただの音の組み合わせに過ぎないのに、言葉に喜び言葉に悲しむ。
また、感覚を感覚のままにしておきたいが言葉に変換せざるを得ない。
便利で不便。 pic.twitter.com/CIAFn3PWgE— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月15日
7月16日、今日の托鉢の中身。
日曜日だからいつもより多い。
托鉢のときに「地面に足が着く」「足が離れる」を実況しながら歩こうとしているが歩くスピードが早くて言葉での実況では追いつかない。
感覚を言葉に変換するのにタイムラグがある。
感覚を感覚のまま理解できるようになりたい。 pic.twitter.com/XQMx81sJhx— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月16日
7月17日、今日の托鉢の中身。
初めての雨が降る中での托鉢。
今日は良い気づきを得た。
身体に意識を向ける
↓
歩行がぎこちない
↓
どうしてぎこちないか考える
↓
石を踏んでも痛くないように足を力ませているから
↓
自然に楽に歩くにはどうしたら良いか考える
↓— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月17日
↓
自分が石や地面を敵と見なしてることに気づく
↓
石や地面を自分の身体の一部(仲間)として考えてみる
↓
力まず自然に歩ける『お前に敵などいない。誰にも敵などいない』(by漫画「ヴィンランド・サガ」)
の本当の意味が分かった気がする。 pic.twitter.com/8tzGrw5UHD— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月17日
7月18日、今日の托鉢の中身。
昨日、小石を踏み、右かかとに血豆ができ痛む中での托鉢。
右足を庇おうとすると左足の疲労感と痛みが大きくなったので、普段の自然に歩くことを心掛ける。
そして、痛覚よりも地面に触れる触覚を重視して歩いてみると、痛みが軽減した。 pic.twitter.com/p7VlIGnaqa— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月18日
しかし、最後の方に集中力が切れ、痛みが戻ってきて、歩きのバランスを崩す。
痛みに意識し過ぎると痛みが増す。
痛みを認識し、しかし、痛みに集中しない。
そんな風に歩きたい。— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月18日
7月19日、今日の托鉢の中身。
血豆の痛みはほとんど無くなったがまだ少し違和感が残る中での托鉢。
今までで1番うまく歩けたように感じた。
しかし、まだ石を怖がって足に力が入ってしまうときがある。 pic.twitter.com/yNzhvTMhBb— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月19日
7月20日、今日の托鉢の中身。
今日で痛みの恐怖から卒業できた。
毎日歩いていた道が今日ら全く違う道に見えた。この道のどこに敵がいる?
敵と見なしていたのは全部自分。全て受け入れる。 pic.twitter.com/WO13nBxb3O
— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月20日
7月21日、今日の托鉢の中身。
初めてのパン!いただきました。今日は痛みもなく、身体も力まず、完全に自由に歩けた。
レベルアップしたような、ステージクリアしたような清々しい感覚。今までの痛みは何だったのかと思うくらいだ。 pic.twitter.com/8xR5RlBWnP
— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月21日
7月22日、今日の托鉢の中身。
もう地面への痛みはないが、これまでの疲労か、身体が重い。
思うように足を運べていない気がする。
明日が最後の托鉢なので集大成の歩きを目指し今日は身体を休ませる。 pic.twitter.com/lMb4g7wRYI— ラオスのジーコ(元仏教僧) (@laolaos_koji) 2017年7月22日
しかし、最後の托鉢はワンシンのため托鉢行には行かず…。
以上。
Twitterでのハイライトでした。
こんな感じで、托鉢修行では毎日新しい気づきや発見があり、実はこの時間が出家中にぼくが一番好きな時間でもありました。
始めはただただ痛かった裸足での歩行でしたが、そこに意味を考えてみたり、歩き方を工夫してみたり、何も考えないように歩いてみたりと、ただ托鉢をしながら裸足で歩くという行為なのにとても面白かったです。
『歩行と痛み』に関しての気づきの流れ
足の裏が痛い
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小石を踏まないように下を向いて気を付けて歩く
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歩き方がぎこちないせいで脚が筋肉痛になる
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これまでの歩き方ではダメだと思う
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なるべく前を向いて歩くことを心掛ける
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痛いのはしょうがないと割り切って歩くようになる(痛みは痛みとして認識して、痛みを苦しみだとは思わない。)
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しかし、やはり痛いものは痛い
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裸足で走って遊んでいる子どもを見る
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何故子どもたちは痛みを感じずに裸足で走れるのだろうか?と思う。そして、自分も子どもの頃は裸足で走っていたことを思い出す。
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子どもが注目しているのは、地面ではなく、走るという行動であり、その行動を楽しむことに全意識を置いているのではないか?と気づく
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自分の歩き(身体の動かし方)に注目してみる
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動き全体がぎこちないことに気づく
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それは、無意識に痛みを怖がっていることから来ている
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痛みを怖がらないためにはどうしたら良いかを考える
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地面・大地・地球を自分の味方だと思う。(自分も地球の一部と考える)
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すると、自然な歩き方ができるようになった。
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しかし、知らないうちに小石を踏み右足に血豆ができる。
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血豆が痛むなかでどうやって歩くかの最大の試練
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これ以降は歩きを洗練する作業
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痛みを意識せず完全に自由に歩けるようになる。
托鉢修行の気づきを日常生活に絡めて考えてみると
日常生活にも毎日たくさんの小石(心の痛みをもたらす原因となる事)が転がっている。
だからといって、小石を避けて生活しようとすると自分らしくない生き方をしてしまい疲れが溜まる。更には小石を避け続ければ避け続けるほど小石を踏むことを怖がり、小石を大きく見てしまうようになる。そしてまた、足の裏もか弱くなってしまう。
小石すらも自分の味方と見なして自分らしく生きる(自分の心や身体に正直に生きる)ことができれば、例え小石でケガをしたとしても、そのケガを学びとすることができ、更には、足の皮も厚くなり小石なんて痛くもなくなる。
自分の身体と心に注目して自分が一番自然体でいられる生き方をする。
それがぼくが托鉢から得た気づきの1つ。
だから、これからも時折自分に聞きたいと思う。
「今、自分は痛みを怖がらずに自然な歩き方が出来ているか?」と。